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 春日市ふれあい文化センター芸術文化事業コーディネーターでピアニストの伊藤京子氏によるエッセーの連載を始めます。音楽を通じて届けたい思いを綴っていただきます。

芸術文化事業コーディネーターとしての8年

 弥生の里・春日市は史跡をはじめ美しい公園等、住む人々も穏やかな印象を与えてくださいます。
 私の最初の仕事は、子どもたちの音楽コンクールを立ち上げることでした。私自身、演奏家となる過程で、国内では小学6年生の時に毎日学生音楽コンクール、そして大学在学中に日本音楽コンクールを経験しました。当時はほとんどこの2つのコンクールしかなかったので、自分の節目の挑戦、あるいは成長のために活用してきました。しかし、私にとってコンクールは決して好きなものではありませんでしたし、その上ほかに星の数ほどのコンクールが存在する今、単に賞を与えるものに価値があるとは思いませんでした。そこで、春日でのコンクールは子どもたちが学べる環境として、コンクール後、審査員の先生方に直接指導していただくことをお願いしました。これは大変好評で、年々高い評価を受けるようになりました。表面的な結果ではなく、その過程の努力や学ぶことの大切さを少し伝えることができたように思います。
伊藤京連載エッセー  また、音楽鑑賞も同様に考え、1回1回消えていくのではなく、皆さまが毎回、何か知識として蓄積でき次につながっていくようなコンサートを考えました。サロンコンサートは、いつも舞台上に座っていただき、家の中で聴くような空気のなかで、日本の代表的な音楽家の良質な演奏とお話を交えた企画となりました。中学生のためのコンサートは、精神的な成長や道徳的な問題を言葉で伝えることと、音楽で言葉のないメッセージを伝えたいと考えた結果の試みでした。講演という形式ではなく音楽を加えることで、より穏やかな雰囲気のなかで伝えることができたと感じています。
 次回のピアノコンサートは「音楽は時代(とき)をこえて・・・」というテーマで、皆さまに聴いていただきます。社会がますます人と人との関係を断絶していくような方向へ導かれ、優しさや感受性が失われていくような不安を覚えますが、音楽がいつの時代でも人に寄り添い、その心を温かく包むものであってほしいという願いを込めて、皆でコンサートをつくっていきたいと思っています。春日での皆さまとの出会いを大切に、今後も音楽を通じて心豊かな社会の一助となれるよう歩んでいきたいと思います。皆さまのこれまでの温かなご支援に心から感謝申し上げます。


子どもたちが希望を失わない社会を

  何度も繰り返される食品偽装、社会保障の崩壊にもつながる社会保険庁のずさんな管理、総理大臣の相次ぐ辞職、世界経済の混乱等々、挙げればきりがない社会問題を私たちは抱えています。食品偽装は無差別殺人を行うテロ行為と同様、重大な犯罪であり、国家として国民の生命を守るという基本がないがしろにされているのではないかと、一連の事柄を見ていて不安を感じるようになりました。
 このような社会現象は、世界の傾向がお互いを思いやる余裕を失い、自己中心型の考え方があたりまえとなり、そのうえ経済至上主義によって弱肉強食となってきたことに疑問を持たなくなった結果生まれてきたのだと思います。それは今に始まったことではなく、原始時代であっても生存競争のなかで起こっていたことだと思いますし、多かれ少なかれ人の性のようなものかもしれません。しかし、さまざまな文明の利器が誕生し物に囲まれる状況が必要以上に進んだ結果、その度合いが強くなりすぎたようです。
 音楽の世界でさえ、ロボットがヴァイオリンを弾いたりトランペットを吹いたり、私にとっては異様な光景が現実になってきました。どんなに電子頭脳が発達しても、やはり人間の繊細な感情は機械には真似できないと思いたいのですが、今のように優しさや他者を思いやる感情が薄れている社会にあって、ひょっとするとその感情によって生まれる行動を機械にインプットできれば、ロボットの方が穏やかな社会を生むのかもしれません。なんとも切ないことだと思います。
 今こそ、大人の私たちがこの社会のあり方を考える時なのだと思います。 先人たちが培ってきた謙虚さや自然への畏敬の念、「お互いさま」の言葉に象徴される穏やかな心を思い出して、子どもたちが希望を失ってしまわないように、努力することの素晴らしさや誠実に生きることの大切さが実感できる社会をここ春日からつくっていきましょう。


努力できる才能 天才・アルゲリッチとの交流

 世の中にはさまざまな才能を持った人がいますが、私の関わっているクラシック音楽の世界にも人智を超えた才能を持った音楽家たちがいます。アルゲリッチ(ピアノ)を筆頭にクライバー(指揮)、ホロヴィッツ(ピアノ)やクレーメル(ヴァイオリン)等、私が実際に演奏を聞くことのできた音楽家を挙げてみましたが、各々の分野において新しい扉を開けた人たちと言っても過言ではないでしょう。なかでもアルゲリッチは女性という枠を完全に超え、ショパンコンクール優勝時の演奏の衝撃は今でも語り草になっているほどです。
((財)アルゲリッチ芸術振興財団 提供)  そのアルゲリッチに出会ったのはミュンヘン留学中のことでした。今でも人の縁の不思議さを感じています。日本とアルゼンチンは地球の反対側に位置し、当然ながら言語も習慣も違うのですが、音楽という共通のものを通して何の抵抗感もなく自然に親しくなっていきました。当時まだコンクールを受ける等修行中の私をコンサートツアーに同行させてくださり、音楽はもちろんのこと音楽家の生活を学ぶ機会を与えていただきました。ひとりで荷物を抱えさまざまな場所へ移動してホテルとホールの往復だけで、また次の公演地へ、という生活は、想像していたよりも心身共に大きな負担を強いられるものでした。常に2千人もの聴衆の前で最高の音楽を伝えていくための日ごろの摂生も当然しなくてはなりません。アルゲリッ チほどの演奏家でさえ、というよりは、常に自分に厳しく完璧を求める人だからこそ演奏前の緊張感は側にいる者にも伝わってきます。
 天才は努力できる才能だと言われていますが、自分に課すハードルを常に高く保っているアルゲリッチを見ていると、その言葉の意味がよく理解できます。何事も楽な職業はありません。しかし、アルゲリッチの奏でる音楽によって多くの人々がその喜びを共有し幸せな時を過ごすことができるのですから、彼女自身もそのことによって心が満たされているように思います。音楽と同様、アルゲリッチその人が、人類への贈り物なのではないでしょうか。


音楽の使命

伊藤京子連載エッセイー 昔から「人事を尽くして天命を待つ」という言葉にあるように、一生懸命に努力をするということの大切さと人の力だけではないという謙虚さから、大いなる存在に対する畏れを親たちは生活の中で子どもたちへ教えていたように思います。しかし、現代社会は即物的になり、簡単に手に入ることを求める傾向が強まって随分と考え方も変化してきています。食べ物もインスタント食品や電子レンジで調理され、ほんの数分で空腹を満たすことができ、テレビでは目まぐるしく場面が変化して、あり余るほどの情報が日々送り続けられています。何かを落ち着いてじっくりと考えることが実に難しい環境となり、人間らしいテンポで生活することがほとんど不可能になりつつあります。このような社会環境の中で何百年も時を経たクラシック音楽が必要とされるのでしょうか。
 それこそこの便利で機械化された世の中とは対極にあり、バッハやモーツァルトが書き残してくれた楽譜から演奏家たちは作曲家の思いを音にうつし表現していきます。先日もサロンコンサートでお話をしましたが、楽譜は私たちへの作曲家の手紙なのです。彼らが思いを込めた大切な言葉を誠実に表現するために楽譜を丹念に読み、それを音にするための技術を磨き、日々膨大な時を費やしながら演奏家は努力を重ねていきます。ボタンを一つ押せば完成するものではなく、五感を働かせ身体を使って表現します。
伊藤京子連載エッセイー  そして何よりも作曲家の思いに添えるように心を込めて聴き手へ伝えていきます。ヨーロッパの地で生まれ、宗教とともに育まれ、民族や政治、宗教の違いを越え人類が受け継ぐ普遍の遺産は、高く祀られるものではなく、人や社会の役に立つ使命を持っているのだと思います。子どもたちの心の成長の一助となれるように、私たちはサロンや学校コンサートを通してクラシック音楽の持つ「こころ」をお伝えしていきたいと思います。


忘れられない出会い

 人には人生の転機になる出会いや出来事があるものです。
 ヨーロッパの留学から帰国して日本での演奏活動が始まりましたが、その中で忘れられない出来事があります。それは知人の主催するサロンコンサートでのことでした。聴衆の中に車椅子の女性がおられたのですが、その方が演奏会の翌日、知人に「自分は医師から余命いくばくもない病状だと宣言され、その日以来死への恐怖から不安で眠ることができなかった。しかし、昨夜、モーツァルトやショパンを聴くうちに死への恐怖が遠のいていき、本当に久しぶりにゆっくりと眠ることができた。ありがとう」と言われ、帰って行かれたのだそうです。そのことを聞いたときは本当に全身から血が引いていくような衝撃を受けました。それまで私は楽曲をいかにうまく弾いていくかということにとらわれていましたので、演奏した音楽が人の死への恐怖をも消し去る力を持っているなどとは全く気がついていませんでした。そのとき以来、演奏することの意味や音楽とは何なのかということを考えるようになりました。
 何百年もの時空を超え人から人へと引き継がれているモーツァルトたちはきっと目には見えない大きな存在からの人類への贈り物ではないか、そうでなければこれほど多くの人々が愛し心の平安を得ることはなかったと思います。そして演奏する行為は彼らのメッセージを忠実に伝えることであり、そのためにどれだけ彼らの境地に近づくことができるのかが大切なのだと気づいたのです。それは実に難しいことで到達することのない世界なのかもしれません。しかし、努力する価値のある奥深い世界でもあります。ましてやそのことが人の役に立つものであれば、これほど幸せなことはありません。人類への贈り物のひとつであるクラシック音楽を通して、人としての生き方や心のあり方等を皆さまとともに考えながら穏やかな社会への小さな歩みを諦めずに進めていきたいと心から願っています。


心のコミュニケーション

 日本人の音に対しての感覚が次第に変化している、といわれています。欧米人との比較の中で、虫の音を美しく心地の良い音と感じる、とされていたのが日本、耳障りと感じるのが欧米だったのだそうです。しかし近年、日本においても欧米化が進み、虫の音を耳障りと感じる子どもが増え、感覚までもが現代の環境の影響を受けているのです。日本の風土や先人たちが遺した文化、自然を愛で俳句等に表されている情緒を、私たちは気がつかない中に失ってきているようです。月を眺めその微妙な陰影をウサギの餅つきに例えるなど、日本古来の文化は実に想像力豊かな感性を感じさせます。戦後、近代化の名のもとに自然を破壊し機械化を進め、合理的な考え方が優れているのだという価値観に支配され殺伐とした社会を作り出してしまいました。そのような社会の変化の中で育つ子どもたちは果たして大丈夫なのだろうかと心配しているのは私だけではなく、多くの大人たちが不安に思っていることだと思います。子どもの環境は大人が責任を持って作っていくものですが、特にコンピューターや携帯電話は大きな問題のひとつです。有害なサイトについては報道等でご存知のとおりです。
 私は子どもたちにもっと人間的な五感を使ったコミュニケーションを持ってもらいたいと思います。そのため学校コンサートの折には、友だちに何かを伝えたい時にはメールではなく会って話をしてほしいと子どもたちに話しています。それは自分の発した言葉に相手がどのように感じているのかを相手の表情から読みとったりすることのできる感覚を身につけてほしいからなのです。音楽の演奏も同様で、演奏者と聴衆の相互の関係があって成立するものですが、お互いに同じ場で同じ空気の中で体験できる共有感を生み、目に見えない音を通して各々が想像力を総動員して豊かな世界に身を委ねる。それがライブコンサートの醍醐味でもあります。クラシック音楽だけではなく他のジャンルも同様に、人が直接人に伝えようとする言葉にできない心のコミュニケーションを生む力を持っている、それが音楽なのではないでしょうか。